シゲティの演奏について、装飾を排したスタイル・精神性の高さなどがよく指摘されます。しかし、奏法が旧式で、音色が乏しいからだと揶揄する向きもあります。これには、遺された録音の多くが、その晩年、技術的なピークを過ぎてからのものであることも手伝っているようです。しかし、その素朴でまっすぐに聞こえてくる音を聴いていると、やはり、華美におぼれずに真摯に音楽を表現したものという評価が正しいように思います。
シゲティのヴァイオリンとの出会いは、幼少時の伯父の手ほどきに始まります。シゲティの一家は音楽を生業にしていましたが、いわゆる音楽家ではなく、楽師や芸人の類だったようです。しかし、家族の者もシゲティ少年の特別な才能に気づき、正式な音楽教育を受けさせることに致しました。当初、指導者選び・学校選びが上手くいかずに、少々回り道をしましたが、ついにはブダペストの音楽院の門を叩きます。
入学テストの際、当時の著名なヴィルトゥオーゾであったフーバイは、シゲティ少年の演奏に興味を持ち、同音楽院の自らのクラスに加入させ、愛弟子と致しました。勉学の傍らに、神童として数々のコンサートをこなし、1905年にはベルリンでのデビューも果たしています。時にはサーカスのアルバイトとして演奏することもあったそうです。
この頃、シゲティは、ピアニストとしても名声の高かった作曲家のフェルッチョ・ブゾーニの知己を得ます。我々が知る「真摯な音楽家」への変貌には、ブゾーニの薫陶が大きかったことが、シゲティの述懐から伺えます。
シゲティの精力的な活動はヨーロッパに留まりませんでした。第二次大戦前から、アメリカ、南アフリカ、オーストラリア、そして、日本と世界各地で公演。レコーディングも頻繁に行っています。1940年には欧州の戦禍を逃れてアメリカに移住。その後、スイスに転居しています。戦後も、戦前同様世界をとびまわり、漸く1960年に現役引退の日を迎えました。
シゲティは、上述のブゾーニの他、バルトークやプロコフィエフ等現代音楽家との交友も広く、数々の曲の献呈を受け、初演も多く受け持っています。
演奏には、自ら所有するグァルネリウスを用いたことも、よく言及されることがらです。
シゲティの名録音については、バッハの《無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ》から聴き始めたという方が多いと思います。晩年のもので、技巧的な衰えも目立ちますが、ソナタの第一曲など私も今でも一番好きな演奏。
AndanteのBoxセットは、メンデルゾーン、ブラームス、プロコフィエフらの協奏曲の他、バルトークの《コントラルト》も収録されて居り、シゲティ入門としてかなり良い企画と思います。
SONYから出ていた、シューベルトやラヴェルのVnソナタが面白いもので、これを推薦盤にしたかったのですが、廃盤中なのがなんとも。Naxosが古い録音の復刻を続けているようで、そこから出ないかと期待しています。
その他輸入盤にも録音がさまざまございますので、お探しものには、Look4Wieck.comのAmazon.co.jp検索機能をぜひご活用ください。
Wikipedia英語版のJoseph Szigeti:
Wikipedia本家の英語頁では、プロフィールや活動の諸相について手際よくまと まっています。対応するWikipedia日本語版の頁は、この英語頁の翻訳ではなく、少々「あれっ?」という内容です。
Excerpts From A Rare Interview With Argerich By Dean Elder:
先日、マルタ・アルゲリッチの頁でご紹介したサイトです。短いものながら、12歳の時、シゲティの前で弾いたこと。それがきっかけで、17歳の時、欧州で再会し一緒にソナタを弾いたことの思い出話があります。娘の自分との演奏に大変真面目に接してくれたことに、大変感激したそうです。
シゲティ初来日プログラム(1931)(昭和六年):
<たびたびご紹介している「海外オーケストラ来日公演記録抄」website。昭和6年のシゲティ来日時の公演曲目情報がありました。伴奏は、若きニキータ・マガロフ。
米TIME誌 ― Szigeti on the Air:
米国TIME誌の1941年1月20日号の小記事。シゲティのこの頃の趣味は、ラジオを聴きながら、作品や演奏家を、「何々派かな」などと類推することだったそうです